このブログは「人の人生をのぞき見できる」ということをテーマに書いていこうと考えているので、まずは私のことを綴っていこうと思う。
私は福岡市の住宅街に3人兄弟の末っ子として生まれた。
兄弟は上から姉と9つ、兄と7つ年が離れていたため、特にかわいがられたようだった。
両親と3兄弟、そして父方の祖母との6人家族で幼少期を過ごしていた。
名付け親は母だったようで、名前の由来は古事記?日本書紀?に登場する「ヤマトタケルノミコト」からとったとのことだった。
母の解釈では、ヤマタノオロチという3つ首の竜の災いから民を救った英雄ということでその名前を付けてくれたようなのだが、自分でしっかり調べてみると、親兄弟を殺してまで自分の欲しいものを手に入れる乱暴クソヤローだったようだ笑
普通は物心がついてからの記憶しかなかなか残っていないと思うのだが、私はおそらく1歳未満くらいの乳幼児の記憶が1つだけ残っている。
それは、母と2人で昼間家にいた時のこと、母がどこかに出かけていったのだ。
自分の力では動くことができず、ただただ孤独の恐怖が激しく襲ってきてパニックになり、どれだけの時間がかかったかわからないが延々と泣きわめき続けたときの記憶だ。
ひたすら天井と玄関に続く廊下を見ながら泣いていた。この恐怖がどれだけ続くのか。そして母は帰ってきてくれるのか?本当に怖かった笑
この「この苦痛がどれだけ続くのか」というのがミソで、「出口が見えないトンネル」的なことに対していまだに強いストレスを感じるようになっている。逆説的に言えば、このストレス耐性が低いのは子の幼少期の体験からきているのではないかと思う。
そして私はとにかく母が大好きで父が怖かった。
母は働き者で、私が物心ついたときには自分が気に入った化粧品を自分の周囲の人に販売する仕事で結構な事業規模に成長させていて、父の会社の事業の一部として店も構えていた。そしてたくさんのおばちゃんに囲まれていた。
母は早起きして脳内出血の後遺症で体が不自由な祖母の介護や家族の朝食づくり、そして家事を済ませると自分も化粧品の仕事に出て、夕方買い物も済ませて帰宅し、すぐに夕食~夜まで家事や介護・・・
という日々を送っていた。 それは私にとっては当たり前の日々だったが大人になってから思い返すと超絶大変な日々だったことだろう。それでも愚痴や文句も言わず、笑って暮らしていた。
優しくていつも笑っていて、結構テキトーで。(もう泣きそうになってきた笑)
何か激烈なインパクトのある記憶はないのだが、いつもいて当たり前だったし、永遠に生きていると思ったし、自分にとっての全宇宙のような感じだった。
父親は、私が物心がつくまではかなり私に甘かったようだが、途中で「このまま甘やかしてはいかん!」といった具合に教育方針を転換したらしく、少し反抗すると割とすぐ手が出る人だった。
父は建設会社で勤務していたが退職し、先祖代々受け継いできた福岡市内の土地やビルを運用する会社を立ち上げ経営していた。 会社経営といっても別にこれといった仕事が日常的にあるわけではないため、朝は事務所(母の化粧品店のバックヤード)に行くものの、昼間は昼寝しに帰宅し、夜も亭主関白全開で、自分は一歩も動かず食前の晩酌から食後のお茶まで母に出させ、食後はリビングで横になりタバコを吸いまくっていた。
だから幼少の私から見れば、父は何もしないのに高圧的で母をいじめている存在であり、母は朝から晩まで働いているので幼いながら「なんて不平等なんだ」という理不尽な感覚を持ち始めていた。
(だけど自分は母の手伝いをしなかったのでやっぱり俺もクソヤローだな、と今でも思う)
といったわけで、今回は私の幼少期編として、
・乳幼児期の恐怖の記憶
・年の離れた末っ子でとにかく甘やかされていた
・資産家のこどもだったので経済的にも多分恵まれていた
・母が大好きで父が怖かった
→夫婦は平等であるべきだという自分の中の正義感の芽生え(この正義感という感覚はずっと持ち続けることになるので、やっぱり自分の生い立ちや幼少期のことを思い返すことって大事だ。)
などがあったというお話。
みなさんも是非、自分の幼少期の記憶をたどってみてほしい。すると、今自分が抱えている癖や悩み、コンプレックスなどの生い立ちまで絶対見えてくると思う。
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